当サイト「ありがとう358.com」では、小林正観さんの考えを参考にさせていただいています。
では、小林正観さんとは、どのような人物なのか?まとめてみました。
東京都出身(深川生まれ)
中央大学法学部卒業
- 心理学博士
- 教育学博士
- 社会学博士
- 旅行作家
- コンセプター
- 作詞家:歌手
の肩書を持ちます。
著書は100冊以上
生前では、年間に300回以上の講演をこなしていたそうです。
もくじ
小林正観さんの人物像
- 努力・頑張る・必死に取り組むことを一切せずに、感謝だけで生きられるかどうかの人体実験を自分で行っている
- 40代から、感謝だけで生きている
- 自分の人生に対して愚痴や泣き言を言わない
- 「透視・人相・人の死期の判別」ができる
- 今まで見てきた人相は18万人にもなる
- ありがとうを合計100万回超えたところあたりで、「アメリカのある大学から心理学博士号をくれた」とせいかんさん。
- 260年ほど前いにた人の生まれ変わりらしい。人名辞典をひもとき、確認したようです。その人は、関西を中心に80箇所ほどで、「人の生き方」について解いてた人らしい
- サイババから感謝状を贈られたことがある
コンセプターとは
旅行作家のかたわら、コンセプター(基本理念の提案者)として、
「ものづくり」
「人づくり」
「宿づくり」
「町づくり」
などにかかわっていた。
小林正観さんは宗教家ではない
小林正観さんは、宗教家ではありません。
ご本人が言っていますが、いかなる教団とも関係がなく、いかなる教団も肯定していません。
小林正観さんは唯物論者
ご自身のことをこのように言われています。
私は、バリバリの「唯物論者」です。
理屈が通らないことは信じません。
実際に現れてきた現象を通して、その裏にひそむ「法則のようなものを観察、研究してきた。
その発見なさった法則の数は、
40年間でおよそ2000個にものぼるようです。
ちゃんと、実証されている
小林正観さんが発見した、法則が事実かどうかを確認するために、
100人以上の知人・友人に話をして、試してもらうようです。
知人・友人が「確かにその話は本当だ!」と言ってもらえたものだけを、小林正観さんは講演会などでお話するようです。
小林正観さんの子供の頃
家の中を物が飛び交い、いつも両親が罵り合っている。
父は警察官、のちにスーパーマーケットの経営者
母は気が強く、群馬県出身のおひめさま系統の出身
両親の喧嘩の原因は、子供(小林正観さん)を守るという立場から、母親が父と言い争うという場面が多かった。
21歳の時に、家業を継がないなら、出て行けと父親から言われる。
小林正観さんの小学校時代
ただ、遅刻を4回した。
遅刻3回につき、1回の欠席と同じになる
正観さんいわく『早く教えてくれてたら、3回目と4回目は走ったらしい』
小学1年の7歳から52年間一度も病気をしたことがない。
※著書:宇宙が応援する生き方より
小学校4年制のとき、母親が実家に帰ってしまった。
父親から「お前が迎えにいけ」と言われる
小学校4年の時に4回
5年の時に5回
6年の時に6回、実家に帰っている
母の実家は(上のから119キロ離れた)群馬県の渋川市。
迎えによるついでに、高崎の観音様など名所旧跡をほとんど訪れた。
時刻表を買って、(小学4年生ながらも)読めない漢字は国語辞典・漢和辞典を駆使して一人で迎えにいっていた。
そのときに、国語力がだいぶアップしたと本人は語っている。
※啼かなくていいホトトギスより
中学時代(22世紀への伝言より)
お父様の書棚には法律関係の本が多かったので、影響を受ける
中高生の頃から、法医学や犯罪心理学の本に興味があった。
15歳で、催眠術の通信教育を学ぶ(雑誌に載っていたもの)
人間の不思議さ、神秘性に興味を持つ
小林正観さんの高校時代
その時、霧に囲まれ、日も暮れだす。
死を覚悟した時に、超能力者が言った言葉を思い出す。
「本当に困った時、自分の力がどうしても及ばない時、近くに樹木があったら、そのうち一番大きい樹木に手をあててお願いしなさい。この話は信じても信じなくてもいい。ただ覚えるだけ覚えておきなさい。完全に自我がなくなると、望みが叶います。」
そして、小林正観さんは「1分でいいから、この霧を晴らしてください」と必死に祈りました。
すると、まわりをびっしりと埋め尽くしていた濃霧が、正面で30度、ふっと切れたのです。
里に続く道が見えて、一命をとりとめたとのこと。この体験が、唯物論的思考をうちやぶる大きなきっかけだったとご本人は言います。
学生時代
・精神科学研究会というサークルに入る
・「人間の潜在能力・ESP現象・超常現象」に興味を抱き心学などの研究を行う
・写真をみて写っている人がすでに死亡している場合は、当てることができた。
写真だけでなく、生身の人間を見てもわかるようになった。
・学生運動に参加した経験もあり、当時は、正義感のカタマリのような考え方だったと、ご本人は言っています。
大学3年生の頃
東京都ユースホステル協会の評議員
↑その気管支の広報委員(取材・執筆担当)
大手新開の学生モニターの会の委員長
大学のクラス委員・自治委員
旅の会のグループリーダが集まるGLAの創始者兼会長
万国博のお手伝い
などをやっていたため、非常に多忙だった。
毎日のように会合があり、
終電で帰る日々
睡眠は3~4時間(ひどいときは1~2時間)
大学に通いながら、一人でアパートぐらしを始める。
法学部に入り、司法試験の勉強をしていたので、
時間の都合がつく「旅の記事を投稿」するバイトを思いつく。
自分で大学を出ることができたと本人談。
※啼かなくていいホトトギスより
大学卒業後
正観さんのお父さんの名前は、正男
お父様が、正観さんの名前をつけるとき
良寛和尚のことが気になって、正寛とした
市役所に提出するときに、ふりがなは書かなかった
まわりからは正観と呼ばれるようになる。
大学を卒業後も「せいかん」と呼ばれるので、
初めてあった人からは「お坊さんですか」と聞かれることが多く
そのうち面倒になり「はいそうです」と答える。
「じゃあお経も読めるんですね」との質問に「少しは…」と言ったものの
読めないので、すぐに本屋にお経の本を買いに行った
(原説般若心経(高橋信次著書)」
そうやって、お経の意味がわかるようになったそうです。
(のちに改名して正観)
(22世紀への伝言より)
あの世の話
大学の精神科学研究会にて、いろんな超能力者に出会うことができたそうです。
その何人かは、幽体離脱が可能で、その際に「あの世」を見ることができたとのこと。
その様子を聞くと、みな似たようなことを言ったとのことでした。
その話によると、林を歩き、草原に出る
丘の上には山小屋があり
中では霊体が集会を開いている
白髪で白ひげの老人が中心になり
霊体はそれぞれに、これから合う予定の霊体に
挨拶をしていく
その数は数万人にもおよぶ
挨拶を終えると森に戻っていき
それから、この世に生まれるらしい
(22世紀への伝言より)