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裏金・汚職などにどう考えるか(小林正観さん)

このページの内容を動画で解説しています↓

以下、文による解説です。

世の中の理不尽に
どう考えればいいのか?

この動画では その鍵となる
「小林正観さん」の正義感に関するお話を集めました

ぜひ最後まで ご覧ください

理不尽にどう考えるか

世の中には 理不尽なことが
いくらでもあります

汚職まみれの政治家が 何度も当選したり
人を不幸にしながら 成功していく企業があったり

理不尽なしくみがまかり通っています

そんな理不尽を 認めたくない気持ちは分かりますが

現実の社会は
私たちが思っている「正義」や「道義」のとおりに
できているわけでは ありません

注意

つまり 自分以外の人たちが
同じ考えを持っているわけではない

他人は変えられませんから
非難しても 相手が変わることはないでしょう

では、世の中の理不尽に遭遇した場合
どうすればいいのか?

自分の正義は持っても構わないが
人には向けないこと

非難よりも重要なことは
「自分は絶対に同じことはしない」と

決意することではないか
そのように一人ひとりが生き
誰とも 競わない 争わない 姿勢で生きていけば

一人ひとりがとても温かで
柔らかな雰囲気を持つ人になる

今すぐ 世の中を 変えることはできないかもしれない
ですが 30年後 50年後 100年後には
変わっていくかもしれない

私たちの次の世代に
平和な世界をバトンタッチできるかもしれない

生まれ変わりがあるなら
人と比べない 世界に 「私」が生まれてくるかもしれない

正義感 と 使命感

正観さんは言います
どんな人が目の前に来ても気にならず

受け入れられる人格になるには
正義感・使命感を 持たないこと

正義感・使命感は
「自分が正しい」と思ったときに
出てきてしまう もの

しかし、自分が100%正しいという状況はありません
「正しさ」はいつも変化しています

ポイント

価値基準には必ず時代性がありますし
ものごとには、いろんな局面があり
一方から判断はできない

相手の状況もわからないのに
正義感 使命感があると
どうしても人を批判してしまう

批判しない人になるには
正義感・使命感を持たないこと

ここで正観さんは提案します

「正しい人」になるのではなく
「楽しい人」になってみるのはどうか

自分が楽しい人になってしまえば
どんな人が目の前に来ても
ニコニコ笑って見ていられるわけです

その結果として、
自分が一番ラクに生きられるようになる

「正義」 と 使命は 自分に向けるのは構わない

ポイント

ただし 正義カン と使命カン
カンを持ち続けると ガンになる
カンは振り回さずにゴミ箱へ

正義感は悪魔の側

正観さんは講演会で
「不幸も悲劇も存在しない」 と言い続けてきました

それに対し ある男性が 正観さんに言いました

ポイント

「世の中にはひどい事件があるじゃないか
ここ最近起きた あの凶悪殺人犯も 許せと言うのか?」

「あなたは 犯人が 死刑になればいいと思ってるのですか?」

「そのとおりです もし犯人が死刑にならずに
社会に復帰するようなことがあったら許せないので
署名運動をして必ず死刑になるようにする」

「それだと、その犯人が憎しみ・怒りによって
事件を起こしたのと変わらない
(その犯人と同じ思考になっている)

のではないですか」

人間は自分が「正しい」と思ってしまったら
何をしても 許されると 錯覚することがあります

正義感は「悪魔の側」にあるように思えます

ひどい事件があるじゃないかと
論評する暇があったら

その意味を自分に向けて問い直してみる
「自分は憎しみによって人を傷つけないしよう」

と決意させるために
この事件を知ったのかもしれない

「自分がどう生きるか」を問い直すために
この事件を知ったのかもしれない

人のことは どうでもいいから
まずは 自分が どう生きるか

自分の価値観で論評して
人を裁くことを続けていると

いつの間にか
「否定」「非難」のマイナスエネルギーを
投げかける人になってしまうかもしれません

そして そのエネルギーが
次の犯罪を生むかもしれない

負のエネルギーを断ち切るためにも
自分の心はいつも穏やかで
周りに優しさを投げかけてみてはどうでしょうか

悪いことをした人は
必ず 因果応報で報いを受けますから

私が裁かなくてもいいのではないでしょうか

基準を押し付けない

もし みなさんが
ある会社の社長だったとします

朝 9時スタートの会社で
ある従業員が 30分遅れて来ました

つい 従業員を責めそうになりますが
正観さんは このような話をされました

ポイント

もしかしたら その従業員は
前日の深夜に 親が突然倒れ
救急車で運ばれ
手続きを済ませ
朝 家に帰ってきて

それから 子どもの食事や弁当をつくり
一睡もせずに、

走って息を切らせながら
やっと会社に着いたのが
9:30だったのかもしれません

そう考えると
遅れてきたことがいけないと
決められないのではないでしょうか

宇宙にはそういった基準はありません
「私」が決めているだけ

「私」が人に迷惑をかけてはいけないと思い
それを「自分の基準」として生きるのはいい

しかし その基準を
人に押し付けないほうがいいと思います

なぜなら 価値基準の押し付けは
周りを傷つけることがあるから

周りを傷つける生き方は
宇宙から支援されることはないように思えます

また この遅刻の場合
「事情を聞いてから 怒る 怒らない」を決めたらいいのでは
と思うかもしれませんが、

もし、遅れてきた人が 事情を話さなかったら
もしくは 話せなかったらどうでしょう

つまり
私たちには 相手の事情や悲しみなど
いろんなことがわかって いないのです

私たちは神ではないので
自分が本当に100%正しいかどうかなど
決められない

ですから、「正しい」か「正しくない」を
基準にして怒るのは もうやめて

自分がどう生きるかだけ で生きていくのはどうでしょう

自分の信念は変えなくてもいい
あくまでも自分を律するためだけの信念

そういう 生き方のほうが
周りに味方が増えていいき

困ったときは 助け合ったり
楽しいと思いながら生きていける

生き方ではないでしょうか

いかに実践者となるか

正観さんが言う
実践者の一つに

ポイント

・絶対に怒らないこと
・人に正義感を向けないこと
というのがあります

正義感・使命感を背負うと
「世の中をなんとかしなくちゃいけない」
「周りをなんとかしなくちゃいけない」
という考え生じますが

それは必要ないかもしれない

なぜなら 宇宙には
「良い・悪い」という概念が存在しない

ただ淡々と 現象が起きているだけ
その現象に論評するのではなく

いかに「私」が実践していくかだけ
興味深いお話に
お釈迦様も キリストも

宗教家ではなかったと言います
二人とも 単なる実践者だった

二人とも 自分で 文章を 1行も書いておらず
弟子たちが 書き残し
それが仏教となり キリスト教となった

もし お釈迦様やキリストが
何かを望んでいたとするならば

それは 二人の実践的な生き方を見聞きした人が
「そうか」と理解し、
実践者となることではないか
そして 一人ひとりがみな

実践者となってしまったら
いつも心穏やかに過ごせるのではないでしょうか

最後に

私たちは 「間違っている人」を見たら
「間違いを正さないといけない」という教育を教え込まれました

ですが 正観さんが言うように
正しさを求めずに 生きていく生き方がある

そうやって 正しさをぶつけずに生きていくと
「よき仲間」が増えて

自分の人生が楽しくなったり
運は人が運んできてくれたりします

そういう 生き方もありますよ
そういうことが お伝えできたらと思います

参考にさせていただいた書籍↓