両者の違いは、本人の捉え方次第…
ではそのことがわかる、小林正観さんのお話をご紹介します。
嫌な人はいない
私たちは人間関係で悩むことが多いです
とりわけ「嫌な人」の対応に困るのではないでしょうか
ですが心学研究家「小林正観さん」は言いました
「自分」が指をさして「この人は好き・この人は嫌い」「気に入った・気に入らない」と言っているに過ぎません。
つまり「嫌な人だ」と解釈している「自分がいる」だけであり
もともと現象はゼロ(中立)
「その中」にいるメンバーは、そこを居心地良く思い
みな仲間で味方だと思っています
こんな人がいる
正観さんのお話を聞いていたAさんが
正観さんに質問しました
「嫌な人はこの世に存在しない」と言いますが
「こんな人」でも嫌な人ではないのですか?
といって、自分の上司について
上司が気分屋で威張ったり怒鳴ったりして困ると述べました
その話を聞いても、正観さんは
「2つの面」から嫌な人ではないかもしれないと言ったのです
2つの面とは
一つは、
その上司は、たしかにあなたの言う通りの性格であっても
それを上回る長所をたくさん持っているかもしれない
もう一つは
その上司が自分を教え導いてくれているのかもしれない
だとすれば「嫌なことを言う人」は大事な存在かもしれない
人間は心地よい言葉だけでは、
ときにうぬぼれ、驕り、たかぶり、傲慢、自分勝手になる可能性がある
なので「嫌な人」
つまり「自分の耳に痛い言葉を言って下さる人」
というのは、「私」をより向上させてくれる
すばらしいアドバイザーなのかもしれません
そう思うことができたら、相手の人が「嫌な人」ではなく
感謝の対象にさえなる…このように言われました。
みな「嫌な人」
Aさんは 正観さんの「2つの面」を聞いても
続けざまに「ではこんな人は ひどい人ではないのですか」と二人目の例を挙げましたが
正観さんは同じように「嫌な人は、そう思う自分が決めているだけだと思います」
とこのような問答が、5人目の例まで続いたそうです
やがて正観さんからAさんに質問しました
あなたはもしかしたら、「嫌な人を1000人挙げろ」と言われたら
挙げられるのではないですか?
Aさんは「1000人くらいなら挙げられる」と言いました
正観さんは続けて
あなたは周りの人がみな「嫌な人」なのではありませんか?
「そうです」
周りが「嫌な人」ばかりでは 地獄のような日々であはありませんか?
「そうですね。まったく地獄です。人生は楽しくないし苦痛です。私、人間が嫌いなんです」
と、このようにAさんは言われました。
あら探しをしない
正観さんは言います
人は誰もみな「未熟なもの」ですから
短所を探したら誰だって必ずある
その短所を見続け それを評価する
一言でいうと「あら探し」
ですが あら探しをする本人の周りは
「嫌な人」しか存在しなくなる
(当然ですね。だって本人が嫌なところを探し「嫌な人」だと認識しているのですから…)
自分が、周りの「嫌なところ探し」をしている間は
「嫌な人」たちだけに囲まれていることになる
周りがみな敵であり、
気を許す相手も存在せず
楽しく語り合うこともない
そうやって
いつも不機嫌で笑顔になれないという生活は
生きていても つらく悲しいものである
それこそ地獄にほかならない
ところが そのひどい状態が、
「ひどい現象」として存在しているのではなく
「自分が決めつけているだけ」と認識すれば、
その瞬間に地獄がなくなる
「周りの人」が問題ではなく
自分の見方が地獄の原因
見方を変える…
この人にはこんなによいところがあった、
こんな面もあった 素晴らしい と思う訓練をしませんか
そうしたら周りがみな「いい人」に見え
「いい人」に囲まれている自分はとても幸せに思えます
もしかしたら 地獄が瞬時に天国に転じるかもしれません
地獄も天国も 自分がつくり出しているということなんです
私(正観さん)は周りがみんないい人ですから
素晴らしい天国に生きています
本当に幸せだけの日々で
みなさんにわけてあげたいくらいです
その人は「よくわかりました」と笑顔になり
会場も急になごやかな雰囲気になったとのことでした
最後に
ここまで聞いて
「自分が変わるだけで、相手は変わらない」と思うかもしれませんが
自分が相手の「いいところ」を探し、
相手を好きになった結果として
自分からでる「表情・態度・波動」が
柔らかくなった結果
不思議と、相手を変えてしまい
関係が修復するケースが多々あるのだそうです
ですからまずは、相手の「いいところ探し」をすること
そして見方としては、自分が傲慢にならないために
存在してくださったありがたい存在だったと受け入れる
お釈迦さま
正観さんの「2つの面」を思い出してみてはいかがでしょうか