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「損得勘定」という言葉は
「悪い意味」で使われることが多いです
例えば「損得勘定で生きるな」という具合に
ですが心学研究家「小林正観さん」は
損得勘定で構わない と言われました
隠された「あるポイント」があったのです
それは「喜ばれる存在となるのなら損得勘定で構わない」というもの
では より詳しく解説させていただきます
損得勘定で人格者に
絶対に何があっても声を荒げない人
怒らない人を人格者とします
そこで正観さんは言いました
おもしろいことに、損得勘定が完全に頭に入ってしまうと
人は声を荒げなくなります。イライラしなくなります
なぜならイライラすると
ストレスで自分の内蔵を傷つけていくから
さらにイライラしていると
周りに敵も増えて 誰も味方になってくれません
やることなすこと裏目にでたりという
運が「悪い流れ」になったりします
ほんと「怒る」という行為は
損得で考えると
とても損することが多い
なので自分にとって損だから
怒るのをやめよう
という損得勘定で
人格者を目指しても構わないのです
いつもニコニコして穏やかで
口から出る言葉が温かい人は
周りから「喜ばれる存在」になっていますよね
投げかけたものが返ってくる
正観さんの宇宙法則には
「投げかけたものが返ってくる」とあります
またそれを言わざるを得ない現象が降ってくる
反対に
嬉しい・楽しい・幸せ・愛してる・大好き・ありがとう・ついてると言っていると
またそれを言いたくなる現象が降ってくる
「投げかけたものが返ってくる」としたら
肯定的な投げかけや、人に親切にしてるほうがぜったい得ですよね
前者と後者どちらが「喜ばれる存在」かは言うまでもありませんね
トイレ掃除
正観さんの宇宙法則に「トイレ掃除」を続けていると臨時収入がある
というものがあります
これに対しても 正観さんはも「清らかな心で実践しなさい」とは
一言も言われていません
「臨時収入があったらいいな」という損得勘定で続けても
まったく構わないですよ と言われたのです
家のトイレがいつもピカピカならご家族が喜ぶでしょう
外のトイレだったら、「次に使う人」が喜ぶでしょう
つまり「喜ばれる存在」となっている…
席を譲る
電車で高齢者が乗ってきたとします
ある男は「席を譲りたい」と思ったが
人の目が気になり「恥ずかしいから」という理由で譲らなかった
別の男は、
目の前にキレイな女の人がいて
この女性に「よく思われたい」と思ったので
高齢者に席を譲った
結果としては席を譲った
これについて正観さんは言いました
果たしてどちらを神さまは喜んでいるか
おそらく、席を譲った方に微笑まれている
「喜ぶ人」が そこに生まれるから
(喜ばれる存在となる)
ですから「親切」も損得勘定でも構わないのです
そして正観さんはこのようにも言われています
それを何回も 何十回も繰り返すうちに、
もしかしたら精神がピュアになって
邪心がなくても、席を譲れるようになるかもしれない
しかし一方で、邪心があり続けてもまったく構わない
邪心があるかないかは大した問題ではない
結果として、席を譲ることができた
そして それを「喜んでくれる人」が生まれた
実践をすることがとても大切
損得勘定は自然なこと
損得勘定なく、実践できることが
本来は理想なのかもしれません
ですが正観さんは言いました
邪心・下心がまったくないというのは
神の領域なので
実際、人間がそこに到達するのは難しい
むしろ、そこに到達していたら
人として生まれてはいない
「肉体を持っている」ということは
人間としての様々な体験を「まだしたい」ということですから、
損得勘定でやっていくことは とても自然なこと
注意点
正観さんのいう損得勘定でも
注意点が2つあります
まず一つは、利己的でないこと
自分の利益だけを考えた損得勘定とは違うのです
「喜ばれる存在」になるかを意識してください
もう一つは、自己満足(空回り)でないこと
例えば、階段の下にいたおばあさんの荷物を持って
上に運んであげたら
おばあさんは「やっと今下に降ろしたところなのに」と言った実例があるようです
なので、相手が「喜んでいること」がポイントとなるので
空回りしないようにご注意ください
正観さんの言葉
どんなに良いこと知ってはいても
やらねば何も知らぬと同じ
どんなに立派なことを頭に入れていても、
実践がともなわ なければ「知らない」のと同じこと
そして「実践」を
損得勘定でやっても構わないということです
「正観さんの実践」を続けていれば
周りを「幸せな気持ち」に変えていき
自分は、「人から喜ばれる」喜びを感じ
さらに「徳」まで積んでいく
どこにも問題はありません
ですから、やったほうが得であり
動機は損得勘定でも
まったく構わないというのが正観さん流なのです
最後に
さて「正観さん」が多くの人から愛された理由が一つ垣間見えたのではないでしょうか
正観さん流は、宗教でも修行でもない
ただ「自分が得するからやる」「自分が楽しいからやる」という損得勘定で構わないのです
そして正観さんの実践は「喜ばれる存在」となることですから
しいては自分が楽しく幸せに生きられるというもの
そして、それをやりたい人は「どうぞ勝手にやってください」というものでした
残りの人生を「敵意・憎しみ」を持ったまま過ごすより
許してしまうほうが、
自分がとても楽で得するからです
お釈迦さま
「損得勘定でも構わないですよ」という正観さんの言葉を
ぜひ、思い出していただけたらと思います