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小林正観さんのいう「謙虚」とは

謙虚 イメージ

お釈迦さま

小林正観さんは、おっしゃいます。
ポイント
神・仏という存在は謙虚な人がとても好きであるらしい。
神・仏ではなくても、社会的に受け入れられている人、多くの友人がいる人、多くの人に喜ばれている事業をしている人は、みんな謙虚です。

お釈迦さま

ただ、ここでいう謙虚とは、一般的にいわれている謙虚とは少し違うようです。

ここでいう謙虚とは(しあわせの宇宙構造より引用)

引用ここから
ここでいう謙虚とは、今自分が置かれている状況や獲得したものは、自分の力によるものではなく、多くの友人や知人、目に見えない存在である神・仏・守護霊・精霊などのおかげだと思っているということです。

また、自分の力や才能・努力によって、ありとあらゆるものが獲得できたと思っていることを傲慢といいます。

偉そうな態度をしているとか、逆に控えめな態度をしているとか、そういう表面的な態度の問題ではなく、自分の生き方をどのように考えているかが、謙虚と傲慢の別れ目になります。

さらに「謙虚さ」について具体的に解説(しあわせの宇宙構造より引用)

引用ここから
謙虚さとは、三つの面で表現できるようです。

一つ目は「思い」。心の部分です。
これは「い・ど・お」(どんなときも威張らないこと、怒鳴らないこと、怒らないこと。)

2つ目は「言葉」。常に「ありがとう」を言い続けること。

そして三つ目は「行為」。
これはトイレ掃除をし続けることです。

心の部分の「い・ど・お」を心がけ、言葉の部分の「ありがとう」をいい、そして行為の部分の「トイレ掃除」の三つがすべて成り立った人を、大変謙虚な人ということができそうです。

謙虚であることとは、実践すること。
そしてまた感謝をし続けること。

ありとあらゆるものに感謝をするということにほかなりません。
謙虚さとは、感謝であり実践なのです。

そのような生き方をしている人は、神・仏・守護霊・精霊の方々からたいへん好まれ、たくさんの支援を受けることができるような気がします。

「補足1」 実践し続けるのは難しい

お釈迦さま

実践し続けることは、難しいと感じるかもしれません。
がしかし、正観さんはよくおっしゃいました。

「邪神に野心に下心、損得勘定あってもよろしいから、実践を続けたほうが得ですよ」と。
つまり、実践を続ければ、神々の支援を受けられ、自分が一番得をします。

「得」をしたいから、実践を続けるという、下心でも、やらないよりかはよっぽどマシという意味です。
もし、みなさんも「実践し続けるのは難しい」と感じるのなら、下心(得するから)という気持ちで、やり続けるほうが良いみたいですよ。

「補足2」 なぜ、謙虚さにトイレ掃除?

お釈迦さま

なぜ、謙虚さに「トイレ掃除」が含まれているのか、私なりに考えてみました。
トイレ掃除を素手ですると、謙虚になります。

というのも、素手でトイレに手を突っ込んだ瞬間に、自我が溶けていくのがわかります。
これは、言い換えれば「トイレ掃除のような仕事をしている私は、偉くはないのだ」というのを行動で感じるからだと思います。

人間は、ついつい立場が上になると、傲慢になりがちですが、そんなときこそ、トイレ掃除を続け、いつまでも謙虚でいたいですね。

「補足3」 なぜ謙虚のほうが良いのか?

お釈迦さま

謙虚だと、神々の支援を受けられると、正観さんはおっしゃいます。

神々の支援を受けられるということは、人間関係がいつも潤沢であり、お金にも困らなくなるということです。

もちろん、努力によって、お金を一生懸命貯めたり、人間関係を円満にしても良いですが、
私達、人間の努力など、神々の支援に比べると、とてもちっぽけらしいのです。(さらにとても疲弊する)

それならば、神々の支援を、有効に使うほうが、とても楽なのです。
ですから、頑張って、必死に努力するよりも、「謙虚である」(神々の支援を最大利用する)ほうが、楽だし、楽しい人生が待ち構えていると考えることもできそうですよ。