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「罪を憎んで人を憎まず」人を憎んではいけない理由

このページの内容を動画で解説しています↓


以下、文による解説です。

罪を憎んで人を憎まず

多くの人が
一度は聞いたことがある 言葉だと思います

意味は
犯罪などの行為を憎んでも その人自体は憎まずにいよう
というものですが
意味は知っていても
実践している人は少ないかもしれません

なぜなら、私たちは
犯罪者を当たり前のように憎んだり
また 自分が正しいと思えば
簡単に人を非難してしまいます

でも やっぱり 人は憎まないほうがいいみたいです

この動画では
心学研究家「小林正観さん」の 話を参考にしながら

人を憎まない方がいい理由を紹介しますので
ぜひ最後までご覧下さい

人を憎まないほうがいい理由

犯罪者は憎まれても当然かもしれません
それは「悪いこと」をしたから
しかもその「悪いこと」を

自分の都合でしか考えなかった結果 起こっている
自分勝手な行動の結果 過ちを犯すことが多い

ですが 気づいてほしい

犯罪者は 悪いことしたのだから
憎まれて当然なんだという「私」の思考がすでに自分勝手になっている

「犯罪者のそれ」になってしまっている

さらに人(犯罪者)を憎むということは
悪循環を引き起こします

ドイツの詩人ゲーテは言いました
「人間 最大の罪は不機嫌である」と

最大の罪が強盗・傷害ではなく
不機嫌が最大の罪と言った

その理由は、
強盗・傷害は、波及せずにそこでとどまるが

不機嫌は 人から人に無限に波及してしまい
次の犯罪の引き金になるから

話を戻すと、
犯罪者を憎む心が さらなる犯罪を生み

それを見聞きした人が 不機嫌になり、
さらに犯罪を生み…
とどまることがないのです

犯罪者を許せと言っているのではありません
「憎まず」と言っているのです

当然 犯罪者は 裁きを受けて然るべきです
罪を償うべきです

ですが、裁くのは裁判官であり
「わたし」ではない

罪を犯したからといって
責めていい
よってたかって糾弾していいという理由にはならないのです

犯罪者を責める(憎む)人の中には
正義感を持ってがゆえの行動かもしれませんが

正義感の方向を間違えると
時に人を傷つけたり
時に争いを起こしたり

結局 罪を犯した人と同じ行動をしかねない

憎しみの根源は
正義感からくることが多い
自分は正しいと思い込んでしまい
そのことに気づけない

お互いが 「自分は間違っているかも知れない」という心を持てたら
戦争は起こらないのです

ですから 罪を憎んで人を憎まず なのです

社会を明るくする運動

法務省「社会を明るくする運動」
作文コンテストにて
優秀賞に選ばれた
小学6年生の少女が書いた作文があります
(旭川に住む佐久間さくま 安里あんりさん)

その一部を紹介させていただきます

タイトルは
「罪を憎んで人を憎まず」

私の家の庭には
ひいおばあちゃんが遺してくれた花が
毎年 キレイに咲きます

ところが ある日
見知らぬおばあさん
アジサイを切って 勝手に持ち出した

母が気づき
窓を開けて
「次からはやめてください」と叫びました

私は 「ひどいことをするなぁ」とモヤモヤした気持ちが残りました

数ヶ月たったある日
母が言いました
「今日、あのおばあさんとすれ違って 挨拶してみたら

おばあさんが立ち止まって
深々とお辞儀をしながら あいさつを返してくれたよ
もしかして 盗んでごめんなさいという気持ちが入っていたのかもしれないね」

それから家族で話し合った
もしかしたら、
ひいおばあちゃんが元気な時に
咲いたら持ってっていいよ」って言ってたのかもしれない

私はある言葉を思い出しました
罪を憎んで人を憎まず

盗んだ人が悪くない わけではないけれど
その人のことを許し
温かい気持ちで受け入れることも大切ではないだろうか

毎日犯罪のニュースを目にします
一度 罪を犯した人たちを
ただ憎むのではなく
一度 相手の立場になって考え
反省することを期待して
許して受け入れる事によって
その人達が 心からの反省をできるようになるかもしれないと思います

自分の感情は人に移ります。
イライラしていると 相手にもイライラが伝わり、いやな空気が広まります。

笑っていると
相手にも楽しさが伝わり、明るい空気が広まります。

それと同じように、相手を許し、受け入れると、
安心感に包まれ、
二度と非行や犯罪をしないという気持ちが広まり、
安心できる世の中になるのではないでしょうか。

 一度のあやまちで
未来の道を閉ざしてしまうのはもったいないし、
周りの人達に そのような権利はないと思います。
人はいくらでも変われるのです。

 私も相手を受け入れ、安心感を与えられる存在になりたいです。

そのためにまずは、もしまた あのおばあさんに会ったら、
明るく元気にあいさつをしたいと思います。

お釈迦さま

小学6年生の女の子が書いた作文です

私達は大人になるにつれ
悪いことをした人間を責めてもいい
教え込まれてきたのかもしれません

ニュースのコメンテーターの言葉を聞いて
犯罪者を許すな」という考えを
刷り込まれてしまったのかもしれません

もちろんコメンテーターは仕事なので
彼らは仕方ないのですが
「わたしたちは」コメンテーターではないのです

投げかけたものが返る

先ほどの少女の作文を 例にあげて考えましょう

もし、花を盗んだおばあさんに対して
絶対に捕まえてとっちめてやる
と憎んで問い詰めたとしましょう

その結果として、
相手が逆上したら

その後、一生嫌がらせを受ける可能性だってあるのです

ですが少女の母親のように、許したら
相手は深々とおじぎをしたのです

投げかけたものが返る
裁くものは裁かれる
許すものは許される

そしてもう一つ
憎しみを持ちながら生きることは
自分へのストレスとなり
内蔵を痛め続けます

許すことは大変な一歩かもしれませんが
許すことで心は開放され
結局は自分が得をするのです

小さな罪は許してもいいかもしれません

ただし 明らかな犯罪は
警察 弁護士 裁判官 などのプロに任せて

「わたし」の心は
憎しみを持たずにいると
自分がラクだと思います

知らないことを評論しない

「罪を憎んで人を憎まず」
この言葉考えるには、
正観さんの 次の話も聞いて下さい

ある日 新聞に 次のような事件が掲載されました

ポイント
父親を刺し殺した疑いで
兄弟を殺人容疑として緊急逮捕
この日は 母親の通夜だった。

という内容が書かれていた

その日の夜 正観さんが知り合いの男性から電話を受けました
話の内容は「同級生が父親を殺した」

そうです、新聞に掲載された兄弟が同級生だったのです

新聞では2人の兄弟が 悪いように思えますが
男性が電話で言った内容は違いました

ポイント
その殺害された父親は
普段から 兄弟や母(妻)に暴力的だった

タバコや酒を買いに行かせ
「何分後までに戻ってこい」と条件をつけ
時間に遅れたら 殴る蹴るの乱暴を
30年にわたり続けてきた

子どもたちもビクビクしながら生きてきたが
高校卒業と同時に 兄弟は家を出て
アパート暮らしをしていた

で、事件が起こる2日前…

いつものごとく
父親は母に酒を買いに行かせました
その日は 土砂降りの雨

時間ギリギリを指定された母は
バイクに乗り 全力でヘルメットも被らずに走っていった結果

スリップして事故死しました

そのことがあり、
通夜の日に兄弟は
「あんたのやり方がひどい」
「だからお母さんが死んだんだ」

と父を責めた

そしたら父親が逆上して
包丁を引っ張り出し、
兄弟に斬りかかったところを

兄弟が包丁を取り上げての事件だったのです
兄弟は自首しました
注意
刑を軽くする 嘆願運動が
兄弟のために広まったそうです

お釈迦さま

この話で正観さんが伝えたかったことは

私達には、一人ひとりの問題について
その状況がわからないから
当事者でないかぎり

事件を評論するのは 無意味ではないか

“ひどい”と「私」が思う事件があったときに
「私」ができることはただ一つ
私は絶対そういうことをしない」って決意をすること

毎日、悲惨なニュースが流れてきますが
そのことにいちいち反応して
評論するのは無意味

「私」は評論家でもなく
ましてや メディアが100% 真実だとも限らない

ひどい事件を見聞きした時は
私は絶対にしない」と心に誓い
実践するだけでよいのです

最後に

ポイント
正観さんが言った
「罪を憎んで人を憎まず」本当の意味とは

人を憎むことは、
自分の心が 犯罪者と同じレベルに近づきかねない

人を憎むことの延長線上に 犯罪というものがあるから

これが「罪を憎んで人を憎まず」の本当の意味ではないか ということでした

今回の動画を見た方々が
見方(視野)を広げてくだされば

許せないと思っていたことが
許せるようになるかもしれない

不幸だと思っていたことが
違う見方ができるかもしれない

その結果として
世界中の 不機嫌の絶対数が減ってくると思います

その結果として
世界中の犯罪が減っていけば 嬉しく思います

憎しみのエネルギーをばらまくよりも
一人ひとりが 自ら 明るく太陽のように生きて
幸せな気持ちを 振りまいていけたらいいですね

参考にさせていただいた書籍↓
(罪を憎んで人を憎まず)

(知らないことを論評しない)