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私たちは ついたられば を言ってしまいます
「あの時に ああしていたら…」
「あの時 こうすれば よかった」
そして時に、
身近な人の「死」に「たられば」を思ってしまうことがあります
心学研究家「小林正観さん」は言いました
死ぬのは 病気でも事故でもなく すべて寿命
では正観さんがこの結論に至った事例を3つ紹介します
ぜひ最後までごらんください
1:数日前から言っていた
1994年 12月30日
あるご主人が 奥さまを亡くしました
その奥さまは、喘息という持病はあるものの
それ以外は普通に暮らしていました
むしろボランティアや 地域の役員になるなど
とても元気に暮らしていたとのこと
ですが突然
急な発作が起こって亡くなりました。
奥さまが亡くなってから半年の間
ご主人は、多くの人から「同じこと」を聞きました
それは奥さまが死ぬ前に
多くの友人に「言っていたこと」
・今度の12月30日が来てほしくない
・なんとなく12月30日がイヤ
奥さまはこのようなことを、周りに言っていたのです
本人は、なんとなく死を予感していたと考えられます
2:前日に言われた
ある女性が交通事故で亡くなりました
女性は亡くなる前日に、ご主人に言ったそうです
「もし私に何かあったら、あと子どもたちのことよろしくお願いします」
正観さんはこの話を ご主人から聞いた時 確認しました
「普段からそういう言葉を口にする人でしたか?」
ご主人は「いいえ。結婚13年にして初めて言った言葉です」
亡くなった当時、
お子さんは 6歳と4歳でした
それから4年ほど経った法事の日
「そういえば、お母さんは亡くなる前日に、
ぼくら2人に向かって こんなことを言ってたよ
『もしお母さんが死ぬようなことがあったら
お父さんの言うことをよく聞いて、いい子になってね』って
当時、子どもたちは
母親が亡くなったことに動転して
思い出す余裕がなかったのでしょう
思い出したくもなかったのでしょう
ですが 4年たって
長男がやっと口にしたのです
この事例も 女性本人がなんとなく死を予感していたということになります
3:誰も降りてこない
1989年頃 観光バスが崖崩れに遭い
乗客全員が亡くなる事故がありました
事故の5分前に
バスは あるドライブインに寄ったのですが
そこで店員と、バスの運転手は
不思議な話をしていたそうです
(運転手)「おかしいな。観光バスの運転を長い事やっているけど この時間にお客が誰も降りてこないのは初めてだ」
時間は深夜ではなく 夕方前でした
もし誰か一人でも降りてきたら、
バスを15分~20分は停めておく
でも誰も降りてこない
トイレにも 電話をしにも出てこない
飲み物やお土産を買う人もいない
店員も「何十年もここで勤めているが、あの時間帯に誰も降りて来なかったのは初めて」とのこと
運転手は「コーヒーごちそうさま」と店員に言って
5分の滞在で バスを出発したそうです
ドライブインを出た5分後に、ちょうど崖崩れが起こり 事故を起こしたとのこと。
でも、なぜ誰も降りてこなかったのか
正観さんの推測では
顕在意識ではわからなくても
潜在意識にて、わかっていた
なので みな 体が重たくなり
動く気にならなかったのではないか
これら3つの事例に共通しているのは
死期が近づいた時
(人によっては)潜在意識でわかることがあるらしい
死ぬのはみな寿命
さて冒頭の正観さんの言葉を
もう一度思い出してみましょう
人が亡くなるのは
病気でも 事故でもなく すべて寿命
この意味は「人生はすべてシナリオどおり」
つまり 亡くなる日が決まっている
(自分でそう決めてきたシナリオ)
シナリオにて病気という寿命で亡くなる
シナリオにて事故という寿命で亡くなる
後悔は必要ない
正観さんは言いました
亡くなる日が決まっているとしたら
「もし あのとき あと10分早く救急車を呼べていたら」
「A病院ではなくB病院にしていれば助かったのに」
「海ではなく 山に行くように言ってたら…」
このように思い悩むことは無意味です
そんな「仮定」の話は、
初めからどこにも存在していない
生まれる状況も、亡くなる状況も
すべて自分で「決めて」きたようです
輪廻転生を繰り返す
正観さんによれば、
人は10万回の生まれ変わりをするそうです
次の生まれ変わりまで
数百年の間隔があるのですが
その間は 魂に戻っている
魂の状態は、人間の自我 我欲は無い状態
悩みも 執着もない状態
食べる必要がないし、お金も必要ない
ただ、天上界から下を見下ろした時
「あなたのせいじゃないのに、いつまで悲しんでいるのだろう」
と思っているのかもしれません
反対に「私」が 明るく笑顔で
周りの人から喜ばれるように生きていたら
「元気そうで良かった」と喜んでくれるのかもしれません
家族や友人など「近しい」ものであったなら
来世においても 近しい関係で
再び縁があるようです
(
歴史にも たらればはない
正観さんは歴史にも「たられば」はないと言いました
例えば、
・あの時 信長の天下がなければ…
・明治維新がなければ…
・戦争がなければ… など
たられば を言い出しても
歴史の中ではキリがありません
これについては
多くの方が肯定してくださいます
では次の質問はどうか…
自分自身の30年の歴史は 歴史ではないのですか
20年前 ああだったらよかった こうだったらよかった と思う人がいる
10年前 ああいう選択もあった こういう選択もあった と悔やむ人がいる
お釈迦さま
「私」の歴史にも たらればはないようです
最後に
正観さんは言いました
黒い紙に 黒を塗っても目立たない
白い紙に 白を塗っても目立たない
ところが、「黒に白」 「白に黒」を塗ると
ひときわ目立つ
それと同じように
私たちの人生も
「死」というものに向き合うことで
それと対極にある
「生きる」ことの意味や大切さがハッキリするのではないでしょうか
私たちは、悩み苦しみを持ち続けるために生まれてきたのではないようです
ただ いろんな経験を通して 魂を成長させるために輪廻転生を繰り返している
そのことがわかれば
今を生きる大切さが 見えてくるのではないでしょうか
過去の後悔・未来の不安に縛られず
お釈迦さま
喜ばれる存在になることではないでしょうか