注意
人の悩みで一番多いのは人間関係です。その人間関係において、よくあることが
「相手が間違っている」
「自分は正しい」
という考え。
だからこそ
「相手が謝るべき」
「自分が謝る必要はない」
という結論にいたり、人間関係がいつまでたっても改善しません。
お釈迦さま
こんなとき小林正観さんの、話を参考にすると良いと思います。
(幸せの宇宙構造より)
(幸せの宇宙構造より)
小林さん「正義感・使命感」の話
ここから
人間は「自分は間違っていない」「自分が正義である」「相手が間違っている」そのように思った時、人間は【威張ったり・怒鳴ったり・怒ったり】してしまいます。
反対に、自分が謙虚であれば、どんなことがあっても「威張らない・怒鳴らない・怒らない」のです。
ある人は言いました。
「この世のすべての人が自分が間違っていると思ったら、戦争は起きないだろう。この世のすべての人が自分が正しいと思っていたら、争いごとばかりだ。戦争はなくならないだろう」と。
自分が正しいと思っていれば、必ずそこに「怒りや憎しみ、攻撃の心」が湧いてきます。
自分が間違っているかもしれないと思えば、怒りや憎しみ攻撃的な心は湧いてきません。
その怒りや憎しみの元というのは、大変意外なことなのですが、正義感とか使命感というものに立脚している可能性が高いのです。
もし、人間の心の中に正義感というものがなければ、人は他人を指して糾弾 (罪を問いただし非難すること)することはなくなるでしょう。
「なぜそういうふうにしないのか」と、今度はしないことをなじる心が使命感というものであるかもしれません。
「私は意識が高く、そういうことをしているにもかかわらず、なぜあなたはしないのだ。なぜ同じように問題に取り組まないのか」というのが使命感というものかもしれません。
人がしていることに対して指をさして糾弾すること、それが正義感。
そして、人が自分の思う通りにしていないことを糾弾することが、使命感というものではないでしょうか。
私達の心の中に「正義」や「使命」があるのは構わないと思います。
自分が自分を律するという意味で、どんなに自分に厳しくしてもよいとは思うのです。
しかし、自分に対する厳しさ、自分に対する律し方を他人に対して指さして押し付け始めた時、そこに【憎しみ・争い・怒り】が湧いてくることになります。
~~~~~~~~~~
環境問題に20年ほど取り組んでいるというある主婦の方がこういう質問をしました。
「小林さんの言う『どんなことがあっても腹を立てたり、怒鳴ったり、おこったりしてはならない』というのは、一つの例外を除いて私は理解ができます。
ただし、その一つの例外にだけは怒りを抑えられません」と。
その怒りとは何かと聞いてみると、
「戦争を起こす人たちだけは私は許せません。どうしてもその人達を憎んでしまうし、嫌悪してしまう。
その怒りや憎しみは正当なのではないでしょうか。
その憎しみだけは、私は正しいと思っているのですがどうですか」
というものでした。
その質問に対してわたしはこう答えました。
「もしかしたら、その「怒り・憎しみ」こそが戦争を起こしているのではありませんか。
もしあなたが大統領や総理大臣・群の最高責任者で会ったならば、あなたは自分の正義感をもとに、派兵を命じるでしょう。戦争を開始するに違いありません。」と。
私達は、自分の怒り・憎しみだけは正当であり、常に正しくて、相手の怒り・憎しみだけが間違いだと、どうしても思いがちです。
しかし、自分が間違っているのではないかと思いながら戦争を起こす人は、世の中にはいません。
どんなことでも争いや戦いの心にならないこと、どんなときでも相手を憎んだり攻撃したりしないこと。
それを実践と言います。
「もしかしたら私が間違っているのではないだろうか」と思い続けることが、謙虚ということかもしれません。
他人の生き方について、いろいろな価値を押し付けるのではなく、自分だけは自分の価値観や美意識で生きてよいのですが、それを押し付けた時に周りのものが見えなくなるような気がします。
ここまで。
反対に、自分が謙虚であれば、どんなことがあっても「威張らない・怒鳴らない・怒らない」のです。
ある人は言いました。
「この世のすべての人が自分が間違っていると思ったら、戦争は起きないだろう。この世のすべての人が自分が正しいと思っていたら、争いごとばかりだ。戦争はなくならないだろう」と。
自分が正しいと思っていれば、必ずそこに「怒りや憎しみ、攻撃の心」が湧いてきます。
自分が間違っているかもしれないと思えば、怒りや憎しみ攻撃的な心は湧いてきません。
その怒りや憎しみの元というのは、大変意外なことなのですが、正義感とか使命感というものに立脚している可能性が高いのです。
もし、人間の心の中に正義感というものがなければ、人は他人を指して
「なぜそういうふうにしないのか」と、今度はしないことをなじる心が使命感というものであるかもしれません。
「私は意識が高く、そういうことをしているにもかかわらず、なぜあなたはしないのだ。なぜ同じように問題に取り組まないのか」というのが使命感というものかもしれません。
人がしていることに対して指をさして糾弾すること、それが正義感。
そして、人が自分の思う通りにしていないことを糾弾することが、使命感というものではないでしょうか。
私達の心の中に「正義」や「使命」があるのは構わないと思います。
自分が自分を律するという意味で、どんなに自分に厳しくしてもよいとは思うのです。
しかし、自分に対する厳しさ、自分に対する律し方を他人に対して指さして押し付け始めた時、そこに【憎しみ・争い・怒り】が湧いてくることになります。
~~~~~~~~~~
環境問題に20年ほど取り組んでいるというある主婦の方がこういう質問をしました。
「小林さんの言う『どんなことがあっても腹を立てたり、怒鳴ったり、おこったりしてはならない』というのは、一つの例外を除いて私は理解ができます。
ただし、その一つの例外にだけは怒りを抑えられません」と。
その怒りとは何かと聞いてみると、
「戦争を起こす人たちだけは私は許せません。どうしてもその人達を憎んでしまうし、嫌悪してしまう。
その怒りや憎しみは正当なのではないでしょうか。
その憎しみだけは、私は正しいと思っているのですがどうですか」
というものでした。
その質問に対してわたしはこう答えました。
「もしかしたら、その「怒り・憎しみ」こそが戦争を起こしているのではありませんか。
もしあなたが大統領や総理大臣・群の最高責任者で会ったならば、あなたは自分の正義感をもとに、派兵を命じるでしょう。戦争を開始するに違いありません。」と。
私達は、自分の怒り・憎しみだけは正当であり、常に正しくて、相手の怒り・憎しみだけが間違いだと、どうしても思いがちです。
しかし、自分が間違っているのではないかと思いながら戦争を起こす人は、世の中にはいません。
どんなことでも争いや戦いの心にならないこと、どんなときでも相手を憎んだり攻撃したりしないこと。
それを実践と言います。
「もしかしたら私が間違っているのではないだろうか」と思い続けることが、謙虚ということかもしれません。
他人の生き方について、いろいろな価値を押し付けるのではなく、自分だけは自分の価値観や美意識で生きてよいのですが、それを押し付けた時に周りのものが見えなくなるような気がします。
ここまで。
もともと「正しい・間違い」は存在しない
どのような人間関係のもつれであっても「正しい・間違い」は存在しません。
ただ、お互いが「自分が正しい」と思うから、人間関係がもつれる(争いが生まれる)のです。
「正しい・間違い」というのは、存在しないのだから、そこを追求する必要はありません。
お釈迦さま
このことがわかってしまえば、どんな目の前の現象に対しても
「自分の価値観を押し付けない」
つまり、【威張らない・怒鳴らない・怒らない】ことができそうですね^^
「自分の価値観を押し付けない」
つまり、【威張らない・怒鳴らない・怒らない】ことができそうですね^^