私たちは不幸に直面したとき
落ち込んだり、不安になったりします
ですが、「不幸が幸せに変わる」と聞けばどうでしょうか
今回はそのことがわかる お話を紹介しますので
ぜひ最後まで ご覧ください
不幸が起こった時
「このつらさが永遠に続く」と思うと
とても不安になりますね
ですが幸福経済学の
ニック・ポータヴィーは言います
本来 脳には
自分に起きた不幸を
ポジティブにとらえるクセが備わっている
例えば
交通事故で両足を失った人が
数カ月後に、
事故前と変わらないところまで
幸福度は戻るようです
その過程として
家族や友人から
「あの事故で生きていたことが奇跡だ」と言われることもある
すると「自分は運が良かった」と考えるようになり
幸福度が増していくとのこと
他にも、
事故当初では ショックの方が大きいが
時間が経つにつれ
車椅子でも
思ってたより動けることがわかるなど
いろんなことが見えてきたりするのです
人によってはパラリンピックを目指したりもします
ここでのポイントは、
時間の経過によって
捉え方が変わる
そして、人間には本来
ポジティブに捉えるクセがあるとのこと
なので つらいことがあっても
無理にポジティブに捉えなくてもいい
ただ 笑顔で淡々と過ごしていれば
あとは勝手に 幸福度が上がるようです
では 次のお話
心理学者 マーク・D・シーリーは言います
多少の不幸を経験した人のほうが
幸福度 が増す
事実、彼はこんな研究をしました
大病やケガ をした人
愛する人との死別に悲しむ人
お金の大きな損失を出した人
など
一般的に不幸と呼ばれる経験をした人たち
2000人を対象に
4年後の健康状態を調べた
するとわかったのは、
普通の人よりも
過去に 不幸を経験した人のほうが
健康状態がよく
うつ・不眠症になりにくく
さらに幸福度が高いという結果が出た
いったいなぜか
それは、大病を患ったことで
周りや家族に支えてもらい感謝したり
今あるものに感謝したり
大切な人を失ったことで
より 自分の命や
生きる意味を考えるようになり
挫折を経験することにより
新しいことにチャレンジするきっかけとなるなど
価値観が変わったり
感謝に気づくことがある
痛みを知ったことで、人にやさしくなったり
人への恩返しを心がけるが、
また自分に返ってくる
そうやって、幸福度
人生の満足度が上がった結果になりました
不幸と直面しているときは気づきにくいですが
見方が変わると不幸は
部分的に受け入れられるのかもしれません
では次のお話
お釈迦様の台座は 蓮の花です
なぜ蓮の花が選ばれたのか
蓮の花は、泥の中から咲いてきますが
まったく 泥がつかず
美しい花を見せてくれます。
人も同様に、
困難な状況下でも
清らかな心を維持できる
ということを教えてくれている
また蓮は、
1本の茎に 1つの花しかつけません
これは誰しもが
2人とない唯一無二の存在ですよ
自分の信念を持ち
人生を歩むことが大切ですよとの教え
さらに蓮は、
一つの花から たくさんの種をつけます
これは、種が新たな花をさかせるように
人も 悟りを開くことで
たくさんの人の心を救うのですよと考えられている
ときに、泥が
人間の苦悩にたとえられることがありますが
泥がないと 立派な花が咲かないことから
人間の成長(悟り)には、
苦悩が必要ですよということを
お釈迦様も言いたかったのではないでしょうか
では 次のお話
もし、不幸にも
何かしらの意味があるとしたら
私たちは別の捉え方ができるかもしれません
それを象徴するかのような詩があります
「ある無名兵士の詩」と言われ
南北戦争の時にケガをした1人の兵士が病院の壁に書き
現在も残っているそうです
その詩がこちら
『大きなことを成し遂げるために
力を与えて欲しいと神に求めたのに
謙虚を学ぶようにと 弱さを授かった
偉大なことができるように健康を求めたのに
より良きことをするようにと 病気をたまわった
幸せになろうと富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった
人生を楽しもうとして
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと 命を授かった
求めたものはひとつとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
私は最も豊かに祝福されたのだ』
この詩は「すべてのなやめる人々へ」という言葉が添えられ
すべての出来事は、
“成長”するための神様の祝福 という意味が込められているようです
では 次のお話
熊本県に住む 詩人・画家 に
大野勝彦さんがいます大野さんは45歳の時に 事故で両手を失いました
当初は苦しみましたが
そこから大きな 気づきをいただき
人生が180°変わったと言います大野さん本人が書いた詩に
「神様からのメッセージ」ありますその一部を紹介します
神様からのメッセージあのな お前が手を切って
悲劇の主人公みたいな顔してベッドで うなっていた時なー
家族みんな、誰も 一言も声が出なかったんだぞご飯は 食卓に並べるのは 並べるけど
箸をつける者は だぁれもいなかったんだぞそんな気持ちもわからんと
「なんも生きる夢がのうなった」
「他の人がバカにする」
お前のそんな顔見とうもないわなー 体が欠けたんじゃ
考えてみいお前の両親いくつ と思う
腰 曲がって 少々ボケて
もう年なんや一度くらい 「こやつが私の子どもで良かった」
「これは私たちの自慢作です」って
人前でいばらして やらんかいもう時間がなかぞ
両手を切って
手は宝物だったと
持っているうちに気づけばよかったそれに気づかんと おしいことをした
それが分かったんだったら
腰が曲がった 親の後ろ姿 よー 見てみい
親孝行せにゃーと お前が本気で思ったら
それは両手を切った お陰じゃないか…今度の事故な
あの老いた二人には こたえとるわい親父な 無口な親父な
7キロも痩せたんだぞ「ありがとう」の一言も言うてみい
涙流して喜ぶぞ
それが出来て 初めて人ってもんだ子ども達に
お前これまで何してやった
自分の気持で どなりっぱなし…あの3人は いじらしいじゃないか
病室に入って来る時は
ニコニコしとったろが
なのに お前は
「子達は俺の痛みも分かっとらん」と
グチ こぼしとった本当はな 病室の前で涙を拭いて
「お父さんの前では 楽しか話 ばっかりするとよ」と確認して ドア開けたんだぞ
学校へ行ってなー
「俺の父さんは手を切ってもすごいんだぞ」
何でも出来て 人前だって平気なんだぞ」って
仲間に自慢しているっていうぞその姿 思ってみい
先に逝った 手が泣いて喜ぶぞしゃんと せにゃ 男じゃなかか
歯をくいしばって
度胸を決めて
死んだつもりでやらんかいもういっぺん言うぞ
大切な人の 喜ぶことをするのが人生ぞ時間がなかぞ…
大野さんは 現在も義手で活動
詩人・画家として多くの賞をとり
大野さんの名前がついた美術館も
運営されています
私たちがよく耳にするのは
心的外傷後ストレス障害 PTSD
これは、トラウマが 心の不調として続くことをさします
これと対象的に
「心的外傷後成長」(PTG)という言葉があります
こちらは
トラウマがきっかけとなり
心が成長していくことをさします
PTSD → PTG に移行することもあり
ですから、今は 心の不調があったとしても
後に 成長に繋がることもあるのです
間違っても、PTSDになったことが失敗というわけではありません
PTSDは、ストレスに対抗しようする反応ですから
あなたを守ってくれているのです
ではPTGに移行する例としてポイントは
まず一人で抱え込まずに誰かに話すこと
話すことによって、感情を整理することに繫がります
次に 自分を責めないこと
あなたが悪いわけでも、
選択を間違ったわけでもありません
責めるのをやめましょう
PTGとは、
「強くなること」ではありません。
自分にやさしくなれること。
それも、立派な成長ではないでしょうか
今回は 不幸を美徳化したわけではありません
つらいものは、つらい。
苦しいものは、苦しい。
無理に
「意味がある」と思わなくていい。
ただ現実として、
人は不幸を経験したあとでも、
もう一度、安心や喜びを
取り戻すことができる
この動画がその一助となれば幸いです
