ガンになった人が
「自分は悪いことはしていないのに理不尽ではないか」という怒りに対して
一つの見方を紹介できたらと思います
ある相談者
私の友人が、ついこの間がんで死にました
その友人が亡くなる前にこう言ってました
人に迷惑をかける人がいるのに
当の本人たちは
悪びれることなく生きている
なのに私は 何も悪いことをしていないのに
なぜこんな病気になって死んでいかなければならないのか
理不尽ではないか
私が何か悪いことをしたというのか
と言いながら死んでいきました
どうしてそんな不公平なことが起こるのか
というのが相談者の質問の趣旨でした
お釈迦さま
正観さんはなんと答えたのでしょうか
正観さんの答え
私は「正しい」生き方をして、
悪人は「正しくない」生き方をしてきたにもかかわらず
「正しい」私のほうが病気になり
「正しくない」悪人のほうがのうのうと生きている
と考えること自体が
自分の体に がん細胞を作るストレスになっていたのかもしれない
自分が「正しく」生きてきたかどうかではなく
「楽しく」生きてきたかどうかが問題なのです
ガンになった人たちの中には
余命数ヶ月の宣告をされたにもかかわらず
気持ちを切り替えた結果、
がん細胞が消滅してしまった人たちがいます
具体的には、
がんになった運命に文句を言わず
がんを受け入れ、
残された余命で
周りの人に感謝をしようとか
手紙を出そうとか
自分の存在証明を遺すため
好きな絵を描いたり、曲を作ったり
本や俳句を残したり…
お釈迦さま
受け入れた人たちでした
「正しさ」はストレスに?!
正観さんは「正しさ」を追求しすぎると、
最終的には怒りや憎しみが生じる と言われました
「正しさ」を人生に掲げて生きてきた人は
「こあるべきだ」というテーマと
常に闘っている状態
「こあるべきだ」という「執着」が
自分への見えないストレスになるわけです
さらに自分が「正しい」と思っていると
自分の価値観にそぐわない人たちは
「正しくない」ことをしている人たちように見えてしまう
つまりそういった相手を許せなくなってしまうのです
そうやって積もった「ストレス」は体を壊し
病気になりやすいのではないでしょうか
では「楽しく生きる」とは
どんな生き方でしょうか
理不尽な出来事
理不尽な人たちに対して
「こあるべきだ」というところに目を向けるのではなく
自分が人生をいかに楽しむか、
いかに「喜ばれる存在」であるか
つまり自分がどう生きるかだけ なのです
不公平はなくなっていない
ここまで聞いて
「不公平」はなくなっていないではないか
という人がいるかもしれませんが
正観さん流では 自分が悟ること
悟ってしまえば
「不公平だ」と文句を言わなくなる
つまり「受けれた」ことになるのです
変えられない他人のことにイライラして
「不公平だ」とネガティブを宇宙に投げかけるよりも
変えられる自分のことを
嬉しい楽しい幸せな現象に、
こんなに満ち溢れていたと
ポジティブを宇宙に投げかける
そうすれば自分は 他人とも自分とも闘わずに
自分がラクに生きられるわけです
さらに結果として
ネガティブ(不機嫌)を投げかけることは 争いや犯罪のきっかけになる可能性があるが
ポジティブ(上機嫌)を投げかけることは 争いや犯罪を鎮める可能性があるのです
つまり「悟る人」が増えれば
誰も争わず
自然と平和な世の中に近づくのかもしれません
最後に
スピリチュアルな観点で言えば
みなそれぞれ 人生のシナリオを
自分の魂を磨くために設定してきています
ですから自分の「正しさ」と
悪人の生き方を比べることは
宇宙的には意味がありません
それなのに「なんでこんなひどいことをするんだ」とか
「悪人はのうのうと生きているのに不公平だ」と捉えると
自分にだけストレスがたまり
大変損な生き方になるでしょう
「悪人に寛容になれ」という意味ではなく
悪事は警察官や裁判官におまかせして
自分は「人に喜ばれる」存在となり
自分の人生を楽しく全うすればいいのではないでしょうか
正観さんが「人生は楽しむためにある」と言われたように
正しいか、正しくないかという価値基準の他に
楽しいか、楽しくないかという価値基準を持っていれば
今までにない楽しくて幸せで
心穏やかな人生が待っているかもしれません
今回のお話を「一つの見方」として
頭の片隅において頂けたらと思います
人間は自分が言ってきた言葉によって人生が形成されるそうです😀
なので、否定的な捉え方(楽しくないなど)を言ってきた場合は
否定的なことを再度いいたくなる未来となります😁
そういう点からも、「正しい」より「楽しい」かどうかの価値観で判断していく生き方は
自分が楽で楽しい人生が待っているのかもしれません😀